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私のモーツァルト(シリーズ その1)

出会い

 この度「協会だより」が増ページされると聞き及び、無性に、モーツァルトに関する自分の原体験を綴って見たくなり、投稿しました。体験は人それぞれですが、こんな風にモーツァルトへ入った人もあったのかと読み飛ばして頂ければ幸いです。特に劇的とも言えず、また拙い内容で、貴重な紙面をお借りすることになりますが、ご容赦ください。

K204竹内ふみ子さんの霊に捧ぐ

 初めてモーツァルトという名前を意識してその音楽を聴いたのは、1960年代の具体的に何年かは忘れたが、ベルリン・ドイツオペラが来日し、「フィガロの結婚」がNHKテレビで放映された時である。また、これがきっかけとなり、その後色々な機会に、「セビリアの理髪師」、「フィデリオ」、「ボリス・ゴドノフ」、「さまよえるオランダ人」などを見た。今なら作品を選ぶだろうが、当時は特段の好みも偏見もなかったし、教養的な意味も含めて色々見たのだと思う。その中では、「フィガロ」と「セビリア」が断然面白かった。理屈抜きに、文句なく面白かった。両作品共、初心者向きの入りやすい作品だったからかもしれないが、それだけでもなかったように思う。ただ、両者には大きく印象が異なるところがあり、それはエンディングの部分にあった。「フィガロ」は終幕に近づくにつれてどんどん深く重くなるのに対して、「セビリア」はどんどん浅く軽くなると感じた。これは印象の問題ではあるが偽らざる実感でもあった。私はこの実感を今でも大切に考えている。私は「フィガロ」の深さが気に入った。

 その後、会社員生活の忙しさから音楽からは遠ざかり、その印象は印象として永いこと私の心に留まるに任せていたが、最近「フィガロ」を何回か見る機会があり、ふと気がついた。今にして思えば、その違いとは、「フィガロ」での伯爵夫人の赦しとそれに続くコラール調の宗教的ともいえる重く深い場面と、「セビリア」での伯爵のテノールの大アリアで終わる最終場面の印象の違いであったのか、と。勿論、今の視点で言えば、両オペラにはロッシーニ・クレッシェンドの魔力的な魅力を中核とする歌中心の「セビリア」と、音楽の微妙なニュアンスによる精妙な性格・感情描写を中核とする「フィガロ」の両世界には、両極端とも言えるような大きな違いが全編に亘ってあるのだが、当時高校生の私がそこまでの違いに気づくわけもなく、私の初めての耳はエンディングの違いだけを聞き取ったのであろう。だが、しかし、その違いは両作品の、いや、両作曲家の本質的な違いを端的な形で示してはいないだろうか。

 それを私は昨年、メトロポリタン・オペラの「セビリア」上演の映画化を見て(私は「セビリア」も嫌いではない)で再認識した。フローレスの歌で。バリトンではなくテノールの伯爵。イタリア・ベルカントの真髄を極めた、それは正に歌の世界。何もないが歌だけがある。全き歌の世界。全きイタリアの世界。では、「フィガロ」は? 私は、伯爵夫人の赦しの歌とそれに続くコラールを聴く度に、人間の「真情」と人生の「真実」という言葉が頭に浮かび、強く心打たれる。モーツァルトは音楽で思考する思索家であった。そのテーマは愛と死。その音楽の背景には常に死の意識がある。だからあんなに美しく輝かしいのだ。そして一瞬の厳粛さ。それが「フィガロ」の終幕に現れ、人間と人生の真実をあらわにする。

 どちらが優れているか? それは、趣味、センスの問題だ。人生観の問題といってもよいかもしれない。しかし、そこにはなんと大きな隔たりがあるのだろう。イタリアの心とドイツの心。イタリアの輝かしい歌の世界とドイツの深い歌の世界。私は?私は「フィガロ」に現れる人間の真実と深い歌の世界に惹かれるから、モーツァルト協会にいる。

 実は私にはもう1つの原体験があり、それは私をモーツァルトの別の一面に導いてくれたが、それについては、次の機会に譲ろう。

K465小澤純一
 

※2014年9月発行「協会だより♯62」より